千年以上の歴史と謎の数々

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寺名と宗派

この寺は、行基菩薩によって開かれたと言われ、宗派は天台か真言系であっただろうと思われる。寺名は不明である。正徳二年(一七一二)に竹雲堤山和尚(ちくうんていざんおしょう)の発願により師である円通寺(氷上町御油)二十五世大庵清鑑和尚(だいあんせいかんおしょう)を開山とし、禅宗の中の曹洞宗として火を灯し現在に至っている。又、寺名についていは、十九山の達身堂(たるみどう)を本堂としてこの地に移した為、十九山達身寺(じゅうくさんたっしんじ)と名付けられたのである。

達身寺の歴史

 達身寺の前進はよく解っていない。寺伝によると、世が戦国の時代であった頃、達身寺は、僧兵を抱え山岳仏教の教権を張るような大寺院であったと言われている。織田信長が丹波平定を行った際、家臣である明智光秀が丹波の地を攻め、篠山城(現、篠山市)や保月城(現、丹波市春日町)などが攻められた。当時、達身寺は保月城に加勢をしていたと言われており、そのことで保月城よりも早く寺院が焼かれてしまった。僧侶たちは寺院を焼かれる前に、仏像を近くの谷へ運び出したのだが、そのまま長い年月置き去りにされてしまうことになったと伝えられている。
 時は流れ元禄八年(一六九五)、この村に疫病が流行り、多くの人々が亡くなった。その原因を当時の村人が占い師に占ってもらったところ、「三宝を犯した仏罰である。」と言われた。村人たちは、山に登り放置されたままであった仏像を集め、破損していた達身堂を、現在の地に移し修繕を行った後、仏像を安置し奉ったそうである。

達身寺の仏像の特徴と疑問史

 達身寺の仏像は、木彫仏であり、その多くが一本の大木から作られる一木造り(いちぼくつくり)である。複数の木材を張り合わせて作られる寄木造り(よせぎつくり)の仏像も多く作られていたはずであるが、長い年月放置された為、寄木では仏像の姿で今の世に残ることが出来ず、破片化してしまった。
 また、一寺に一躯(いったい)奉ればよいとされている兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)が十六躯もあると言うこと、本尊仏になる仏像が多いこと、未完成の仏像があること、仏像のお腹が膨らんでいること(これは達身寺様式と呼ばれている)等、特徴が挙げられる。

郷土史家船越氏の説と古文書

 達身寺に言い伝えられている事実とは少し違うのではないか、大寺院で山岳仏教の教権を張ったと言うよりは、お堂を多く持った工房であったのではないか、そこに丹波仏師がいて造仏していたのではないか、と言うのが郷土史家船越氏の説である。
 達身寺では、丹波仏師がいたことを認めれば昔からの疑問はいくつか理解できる(未完成の仏像、本尊仏が多い、同名の仏像が多い等)。奈良の東大寺の古文書の中に丹波講師快慶と記されており「私は丹波仏師である。もしくは丹波の地とつながりの深い仏師である。」と言っているのである。とすれば、鎌倉時代の有名な仏師快慶は、達身寺から出た仏師もしくは、達身寺とつながりの深い仏師であると言える。ところが、残念なことに達身寺には古文書が何も残ってない為、はっきりしたことは解らない。だが、鎌倉初期から平安弘仁期の古い仏像が沢山おられると言うことだけは、はっきりとした事実である。